広島高等裁判所岡山支部 昭和31年(う)209号 判決
論旨 原判決には判決に影響を及ぼすことの明かな事実誤認の違法がある。即ち原判決は「被告人が昭和三十年九月二十六日午後七時頃笠岡市神島瀬戸渡場において同船した岡田愛子を認め劣情を催し、同女の後を追い同女と共に神島外浦に向け互に自転車で同行の途中同市神島外浦字小藤の隔離病舎裏において二回に亘り肉体関係を結び、その際同女が右下腿外側に全治五日を要する擦過傷を負つたことを認定しながら「被告人において同女の抗拒を著しく困難ならしめる程の暴行、脅迫を加えたことがあるのか否か、またそのような暴行、脅迫を加えられたが為に同女がその真意に反して性交を忍受するの已むなきに至つたのか不明確であつて、公訴事実を積極的に認定する程の確証を得ない」とし、結局犯罪の証明不十分であるとして無罪の言渡をしたのであるが、被告人が被害者の抗拒を著しく困難ならしめる程度の暴行脅迫を加え、之により被害者がその真意に反して性交を忍受するの已むなきに至つたものであつて、此の点原判決は証拠の取捨選択を誤つて事実を誤認したものであるというのである。
そこで先ず原判決が無罪とする理由を見ると、その要旨は
一、被害者岡田愛子は当時三十年に達し、結婚後十二年を経過する性的経験の多い、しかも体格気力共に常人に勝るとも劣らない年長女性であり、被告人とは本件性交の当日はじめて相識つた間柄とは云いながら、渡船より上陸以来約四粁の間を双方の住所や氏名を尋ね合い、雑談を交えながら相竝んで自転車を進め、自己の身分についても故ら有夫の婦であることを隠し、却つて被告人をして独身であると誤信させるような虚言を用いておること
二、前記避病院附近において被告人のため突如自転車を突き当てられ足を道路について停車した際にも、被告人がその場に転倒したことを知りながら、その隙に逃走を企てようとした形跡もなく、被告人から押されて転び情交を迫られたときも、ただ「おとなしくするから」「言うことをきくから」とか云つただけで何等の抵抗をも企てず、要求を拒否するような言語、動作を示さず、これを回避するような臨機の措置もとらなかつたこと
三、時間的場所的状況から必ずしも通行人による救助を期待し得ないわけではないにも拘らず、被告人に手を掴まれたまま同所より他人の発見困難な避病院裏の傾斜して夜間歩行容易でない土手道を二人で登り、現場に到達後は被告人の要求のままに、被告人が敷いた布切の上に自らズロースを脱いで仰臥し、爾後合意の情交と区別し難い性的技巧をさえ用いていること
四、情交を終つて一旦元の道路を降りながら、被告人から再度前記情交場所に行くよう要求せられたとき道路に通行人があつたのに、之に救いを求めるとか、逃走を企てるとか容易に被告人の要求を斥け得たと考えられるにも拘らず、却つて身を隠して通行人をやり過した後、被告人の後を追つて最初の情交場所に至り再度の情交に応じておること
その際被告人から問われるままに主人と離別し、子供と死に別れた独身女性であると申欺き、これを信用した被告人より妻になつて呉れと要求せられるなど互に問答を交わして情交に応じておること
五、被害者の蒙つたという原判示の傷は二度目の性交の際、足を拡げたため傍らの鉄条網に触れて生じた過失傷で必ずしも被告人の暴行や同女の抵抗を立証するものではないこと
などの経過に徴すると、証人岡田愛子の証言中「若し被告人の要求に応じないときは殺されるかも知れないという恐ろしさのために言われるままに被告人の要求に応じたものである」との部分も俄かに措信し難く、又被告人が「言うことを聞かないと海に投げ込むぞ」といつた事実の有無も疑わしいということを骨子とするものである。
そこで原審及び当審で取調べた結果を綜合すると、被害者岡田愛子(現在有岡愛子)の当時における言動には原判決が既に指摘するように、強いて姦淫されたものであることを疑わしめるに足りる点の多々あることは否定し得ないが、しかし同女がはたして被告人の要求に応じて情交を認容したものであるかどうかを知るためには次の諸点について検討を加える必要がある。
第一被害者岡田愛子の性格
岡田愛子は当時齢既に三十にして一子ある人妻である。当時夫との間は円満を欠いでおり、中等教育(旧高等女学校卒業)を受けたものとしては貞操観念も幾分稀薄であることは否定し得ないが、さりとて路傍にて行きずりの見ず知らずの男にもたやすく情交を許す売娼婦に類するものと認むべき程の証左はない。
況んや当時いまだ約二十才にして色浅黒く、頭髪はぼうぼうと延ばし、人相風体甚だ振わない一見土工風と窺われる被告人に対し、約四粁の間言葉を交わしながら自転車にて同行したとはいえ、その間の時間は極めて僅かであろうのに、一般家庭の婦女がそれがためにたやすく情交を許すに至つたであろうと認むべき特別の事情は見出し難いのみでなく、又その蓋然性についても恐らく経験則の範囲を超えないであろう。
第二、本件犯行現場附近の模様
本件犯行現場附近は原審及び当審における検証の結果に照らすと、急峻な高い山が海面に向つて稍々凹状をなして突出し、これと海面の外見ることもできず、人家からも著しく隔絶された感のする地点である。伝染病隔離病舎の設けられておる事実は此の地点の状況を証明して余りがある。加うるに岸壁を兼ねた道路は外浦にある神島化学株式会社の出退時刻以外は通行人極めて少いといういわゆる淋しき地点である。
本件犯行の時刻は午後七時三十分頃というのであるから、右に従えば既に通行人の極めて稀れだという時刻である。(事実において約四粁の間一回通行人に出遭つたのみであるという状況である)当時月明かりはあつたというのであるが、殆んど満潮時に近く海水は道路端まで満ちていたと窺われ(記録二六四丁)しかも尚右隔離病舎には入居者はなかつたというのである。
人通りとだえた夜間このような場所を始めて通る者においては(岡田愛子は始めてここを通つたという)昼間ここを見るとは異つて婦女子ならずとも無気味なものを感ぜざるを得ないであろうことは察知するに難くない。此の附近の地勢にくわしい被告人が強いて同女を姦淫するの場所としてここを選んだこともなるほどとうなずくことができる。ましてや齢三十とはいえ、婦女子が単身このような場所において突如自転車を突き当てられ、身長五尺七寸もあろうかという大男で、しかも人相風体よろしくない一見土工風の被告人から殺すとか海に抛り込んでやるとか脅し文句を竝べられ、首筋を抑えられて情交を迫られた場合における恐怖感については充分に之を推測することができる、ここに至つては一般の男子と雖も、恐らく反抗心を喪わざるを得ないであろう。
第三、被害者岡田愛子が被告人と交わした問答及び当時の同女の態度
原判決は被害者岡田愛子が被告人と交わした問答について、或は有夫の婦であることを殊更秘したり、逃げるべき手段もとらなかつたり、或は情交を迫られても少しも抵抗したりした形跡のないことを挙げておるのであるが、このような場合に処して婦女子のとるべき方策は身体生命に対する危険を冒かして徹頭徹尾抵抗するか、或は又貞操を犠牲にしても身体生命に対する現在の危難を避けんとするか二者その一つを選ぶの外はあるまい。被害者岡田愛子が原審及び当審で証人として供述するところを見ると、怖ろしさの余り大声で人を呼ぶ気持もおきなかつた、人通りはないし逃げれば殺されるかも知れない。殺されるよりはましだと思い被告人の言うままになつて早くその場を逃れたい気持であつたといい、簡明、卒直に終始一貫して後の道を選んだ趣旨を供述しておる。
之に反し原審は同女に求めるに前の道を以つてし、同女が何等抵抗せずしてたやすく情交を許したことを以つて、同女がその意に反して姦淫せられたことに疑念を抱くものの如くである。もとより婦女子が死力を尽して貞操を守ることは理想といい得るかも知れない。しかし身体生命に対する危害の脅威を以つて貞操を求められた場合、身体生命の安全と貞操の犠牲とのいずれを重視するかは人により又時により異るところでもあり、またその是非も容易に決し難く、単なる理想のみによつて現実は律し難い。況んや未婚の処女の場合とは異り性的経験豊かにして貞操観念も鈍麻した中年婦人の場合においては後の道を選んだとしても敢て異とするには当るまい。
又原判決は最初の情交を終えたとき通行人があつたのに之に救いを求めなかつたことを責めるのであるが、いまだ貞操を犯されない前ならいざ知らず、既に情交を許し、ために危害を加えられる怖れも一応去つたと思われるときにおいては救いは無用であるばかりでなく、見知らぬ通行人に被害の事実を告げることに羞恥を感じて能う限りこれを回避しようとする婦女の心裡についても洞察を怠つてはならない。
次に同女が被告人と種々問答を交わし、殊に自分は独身であるとか、被告人との再会を約したことなどから、同女が被告人に好意乃至親近感を抱いていたものと解すべきではなくして、同女が自分の境遇などに関して殆ど出鱈目を以つてしておることなどから観察すると、同女はその真意を秘して被告人と応対していたことが明かであり、加うるに被告人に危害を加えられるかも知れないことを怖れての余り、被告人の意を損ぜぬようにとの意図に出たものと窺われる。(いうままになつて早くその場を逃れたいとの気持であつた旨の供述参照)若し之に反し仮りにも同女が徹頭徹尾抵抗したとしたならば、被告人の体力と知能の程度(被告人の小学校の成績証明書の性行概要欄には、痴鈍、魯鈍、愚鈍などの語を使用してある)を以つてしては、如何なる事態を惹起していたかもはかり難い。
第四、被害者岡田愛子の事後の行動
(一) 被害者岡田愛子の事後の行動について観察すると、同女が当初(情交前)被告人から行先を尋ねられたとき、外浦の坂本のところへ行くと答えたとき、被告人は自分はその家の近所だといつたので、同女は若しそこに行くと被告人が後を追つて尋ねて来るかも知れないと怖れてそこへは行かず、今城範政方に行つておる。
(二) 今城方に行くや強姦されたことは秘してはおるが今避病舎のところで首を掴んで倒してから上の方へ連れて行かれ、殺すとかなんとか云つて時計を呉れとか借せとか云つて持つて行かれた、怖かつたと告げておる。
(三) 翌早朝右今城方を出て自発的にその足で(午前九時半頃)知り合の大角巡査の居る里庄東巡査駐在所に行き同巡査に強姦された旨の届出をし、これによつて本件の捜査が始められた。
以上本件場所の状況、当時の被告人の人相、性格、言動、被害者岡田愛子の当時の言動及び事後の行動など諸般の点に亘つて観察するときは、被害者岡田愛子は被告人の暴行脅迫に畏怖の余り、これに抵抗しかねて被告人のなすがままに情交を忍受せざるを得なかつたものと認めることができるから、強姦と認定するに充分である。
第五被害者岡田愛子の傷害
同女の原判示の傷害は原判示の如く、同女が二度目の情交の際傍らの鉄条網に触れて生じたものであることは之を認めるに充分であるが、しかしここに至つたことは結局被告人の暴行に基因するものであるから、強姦に際し被告人の加えた傷害ということができるから、被告人の所為を強姦致傷と認定することができる。
然るに原判決は之に反し前段説示の如く被告人の所為を強姦致傷と認めるに足る程の確証がないとしたのは、証拠の価値判断並に取捨を誤つて事実を誤認したものであつてこの結果は判決に影響を及ぼすことが明かであるから、原判決は此の点において破棄を免れない。
(裁判長判事 有地平三 判事 宮本誉志男 判事 浅野猛人)